昭和48年05月14日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ。それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
折角御神縁を頂いた。本当に汲めども尽きぬ清水とでも申しますか、そういうお恵みに触れられる。そういうおかげの頂けれる道に、折角御縁を頂きながら途中で止める人がある。その事を教えておられるんだと思うですね。ですから途中で止めればという、途中で止める段ではない。益々そこから元気が出てくる様な信心。そういうおかげをです頂いておかなければならんと言う事だと思うです。二十八節です本当に椛目合楽を通して、二十何年の間に随分沢山の人が、御神縁を頂き又おかげを頂いたんですけれども。
本当に残っておるのは僅かと言う事です。沢山な人が御神縁を頂いておるけれども、途中で止めてしまっでおる。もうこれは神様としても、どんなに残念な思いをなさるかわからない。又本人も本当に惜しい事だと私は思うのです。やはりここには退屈してというか、とにかくへこたれるわけですよね。ですから本当にこれは私、今朝からの実感ですけれども。金光様生神金光大神様と唱えると、どんなにきつかってもどんなに苦しかっても、その苦しい事は苦しいけれども。
金光様と唱えておるとその後から喜びが湧いてくるですね。それについてくる金光様と苦しければ苦しい程、真剣に金光様を唱えるでしょう。ですから真剣に唱えるからそれについて喜びというものは頂ける。是は結構なおかげを頂いて勿体ないと思う心が、金光様と言う事にもなってくる。ですからこういう素晴らしい金光大神を頂いておったら、止めろと言われても止められるものじゃなかろう。退屈でしょうと言われて、とても退屈のだんじゃなかろう。ですからここの所を頂かなければいけないなと。
そんなら先生はああしておかげを受けておられるから、そうでもあろうけれどもと言う人があるかもしれんけれども。そんな、病気、代々難儀の続く人が、神のおかげを受けるのは、途中で井戸替えをするにという、本当に汲み上げても汲みあげても、濁った水汲み上げても汲み上げても、ゴミ芥の様なものしか出てこなかった時代があるんです。本当に信心の無い人でもです、ちょっともうあげん参らんならんなら、あげん拝まんならんなら、もう大坪さん方ん横の道を通ると、もういつも柏手がする。
それはそうでしょう、家族中の者が何かと言や、御神前に出るのですから。裏が柿畑ですぐ横が道でしたもんね。ですから拍手をしては、皆んなの者が拝みよるから、もういつも柏手が鳴っている。いつも拝みござると言うてそんなら信心すら、どうしてあげん貧乏しなさらんなんじゃろうかと言った様な、矢張り貧乏か続いたと言う事です。そういう時にですね、今から考えてみますと確かに白真剣に、金光様を唱えなければおられなかったが、その唱えるとですね、確かにその下からね。
矢張り有難いものが湧いておったと言う事です。私はあの時分の事を思うて、金光様ちゃこんなに有難いのに、途中で止めたりする人達の、本当に気が知れんと思うくらいです。金光様のご信心ちゃそんなに有難い、尊い神様です。と言うて願いごとというものは、一つも成就していない。私は今日はある事を、神様にお詫びを申させて貰いよりました。本当に神様に対して、相すまんことだと言う様な意味のお詫びを、心からさせて貰いよりましたら、何と言うですかね如来様。
如来様の後ろに、こう言う様な風になっとるでしょうが後が。ここに如来様が立ってござって、是がねこう寄りかかるようにした、是は何ですかね、後光を作ったものでしょうかね。それがこう寄り添っておる所を頂いたんですよ。だから是は私のお粗末じゃなかったろうか、御無礼じゃなかったろうかと、こう思わせ頂いた途端にね。神様がねこういうように寄りかかって下さる程しの、天地の親神様がね、寄りかかって下さる程しのおかげを、そこにあの事この事。
色んな事から感じるならね、それはお詫びじゃない、やっぱりお礼を申しあげるべきだという意味の御理解を頂いたんです。この事は思うようにはならん、この事は悲しい事この事は苦しい事、是は私の信心のお粗末御無礼と、お詫びをさせて頂いておる。それはお詫びする事じゃないおかげだと。その証拠にはお前の後ろを見て、それこそ後光が寄り添う、もう寄り掛かるようにね、例えば私なら私を、御守護下さってあるではないかと。皆んなおかげの中にあっておる事ぞという事だったです。
そう言う様なものが、私共の所謂大坪家の上には、どういう難儀な事が続いておっても。病人はもう寝たっきりの病人がおりましたし、いわば経済の面ではもう是より以上の貧乏はなかろうと思うような貧乏をさせて頂いた。その上借金はもう一杯というのですから。それでもですね、それでも本当に神様の御守護を受けておるという実感がいつもあったからです。それはいつも申しますように、例えば御大祭とか、御本部参拝とかと、月々お参りさせて貰う、その時だけはね、もう本当におかげ下さったんです。
だから、これ程しのおかげを下さる神様だから、苦しい事は苦しいけれども、金光様と唱えるとです。その下から有難いものが一緒について出てきよった。金光様と言うのは、苦しいから出るのでしょうね。例えて言うと。けれどもその後から有難いものが湧き出るように、有難いものがついて出ておった。だからあの時分ああいう中に、ああいう信心が出来ておったと思うのです。ですからね金光様の御信心は、そこまでねお互い頂いておかなければいけないなという事です。
その時分にそんなら、大した信心が出来ておったと言う事でもないけれどもですね。その身から打ち込んだ信心が出来ておった。途中で止めればとても私は、ここまではそういう途中で止めるような人達があるからこそ、こういう御理解を下さってある。お前はひとつもおかげと思うておらんけれども。目に見えない所のお取り払い。それこそ今こそ病気、災難の根が切れておる大事な所だから。
ここん所を辛抱してくれよという、神様の切なる願いを、そこに聞くような思いで、難儀とは取り組まなければいけないと言う事です。難儀の取組方です。ですからやれ痛やというような事であっても、有難しという心が、その後について出てきたという感じです。私は今朝は本当に何回、金光様を心の底から、金光様と唱えるたんびに、下からそれこそ本当に有難いものが湧い出てくる。そういう信心をです。
私共がおかげを頂いてからではなくて、そういう信心しござれゃどうしてあんなに難儀な事が続くだろうかと、人から見られたら、思われるような言われる様な事に、その信心を頂いておかなければならないと言う事です。そして愈々井戸ざらいが出来て、後は汲んでも汲んでも尽きぬ程の、いうなら清水のおかげを頂かせて貰うという事。そして不思議ですね、もうその金光様ということは、もう有難とうございますを言う前に、有難いものが湧いてくる。それがねそんなら苦しい事を、癒す働きになると言う事です。
それは体の上でもそれですし、他の難儀な問題でもその有難いが、おかげの元になると言う事です。だからもっともっとね、金光様の唱え方が足りない。もう少し苦しいなら苦しい程しら真剣な金光様を唱え方。それはね苦しゅうございますから助けて下さいと言うのじゃないのです。唱えなければおられない、金光様なんです。それが苦しい事を、苦しいと思わんですむ程しのおかげ。例えばどんなに寒かっても、寒い段ではないポッポッと体が温もってくるようなおかげ。
それではそんなら、じっとしておって、体が温もるはずはないから、一生懸命働くという事がです。確かにそうですよ、御用なんかでもね、私の修行中の時分をご存じの方は、椛目から善導寺まで、その頃は自転車もございませんでしたから、歩いてでしたから。歩いて、勿体島の堤防の上くらいまで行く間は、足が、冬なんかは踏み立たれんくらいにあったですアカギレで。
お水ばっかりでしょう。風呂と言うものに入らんでしょう、足袋は履かないでしょう。それで下駄は血でぬるぬるする位でした。それが又こう踏み割ってしまうとです。勿体島位から楽になるのです。それをあちらへ行ったら、血がいっぱい下駄にもついておりますから、それをジャ-ッと洗うといて、それから御祈念前に、長い廊下をお雑巾がけさせて貰う。ほんなこてですね、熱いごたる涙がこぼれよったです。お雑巾がけさせて頂く、ここの上にね落ちる涙って、本当に熱いごたったです。
私は熱い涙というのは確かにそうです。もう何が有難いやらわからんけれども、有難とうして有難とうしてと言う事です。そんなら泣き面に蜂と言った様な、難儀な中にあって、有難とうしてこたえんのですからね。私はあの有難いがあの時分の私共一家の信心を支えてくれた。勿論途中で止めようてんなんてん、へこたれた心は勿論起こりもしませでしたけれどね。という程しの神様を頂いて縁を頂きながら、途中でやめる人達の気持ちが知れん。結局そこまでいってなかったと言う事になるわけですけれどもね。
私は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう元気な心でというところを、今日私は、そういう寒いならです、それにまぁいっちょ輪をかけたような苦労をしてみようという気が大事だと思うですね。自然が求めてござると言うか与えてござる。修行だけでも本当に吐息の出るごとある。それに例えば朝参りをさせてもらうと言うか、そういう寒い時でも、踏み立てられんごと足が痛かってもです。又その上に朝の御祈念前の清掃なんかさせて貰うと言う。ですからその苦労に苦労を重ね。
また重ねると言った様な、そういう修行精神がです、一心の信心からでないと生まれてこない。そこからこれはもう理屈ではない、有難いものに触れられておったんだと言う様な事を、私は今朝から、昨日少しお酒を頂きすぎて、実を言うたら苦しゅうなからにゃならん筈、勿論苦しかったです。けれども苦しいから金光様というなら、大酒大食は絶食の元になると仰るのに、調子に乗ってから大酒大食をしてるわけなんです。
だからその事を一生懸命お詫びさせて貰いよったら。それはお詫びと言う事ではないと言う事。もうこれ程しの神様のいわば、より添うて下さっておってからの、苦しみだから、それはお詫びじゃない。お礼だ。金光様と言うのが、本当にお礼の心で、金光様を唱えさせて頂く所からです、有難いものが、何回湧いてくるかわからない。その何回も何回も、有難いものが湧いてきよったら。
平生と一つも変わらんような気分にならせて頂けれると言う事。確かに真に有難しという心は、もうすぐおかげのはじめです。ですからまあだ苦しいけれどもと言う時には、まだ修行の足らん時と思うて間違いないです。だからその苦しみがです。寒いと思う時には、まあだ働きが足らん時と思やいいです。だからちったもう身を切るように冷たかってもです、もういっちょ働いてみるんです。
もういっちょ頑張ってみるです。そうするとそっから湧いてくるのが有難い。それこそ、一枚くらい着物を脱がせて頂きたいぐらいな、腹の芯から温もってくるおかげが頂かれるのです。そういう信心をです、私は難儀な時苦しいと思う時に、しっかり身につけておくならばです、とてもとても途中で止めろと言われても、止められる段の事じゃない。有難い信心が愈々身につけてくると思うですね。
どうぞ。